一枚の切符から 昭和58年11月3日 その1
ゲストハウス無我には、実家から持ってきた一冊のスクラップブックがある。宿主がフグ―な中学生、高校生の時に集めた切符である。少しだけ自慢話をすると切手屋から購入したようなものは一枚もなく、それらの切符全てが自分で乗ったかあるいは、知人友人にいただいた切符である。
ここで若い人にために解説をしとくと、切手屋というのは郵便局の事ではない。記念切手や古銭等を扱っている店である。でそのついでに古い切符を販売していたのである。その多くがホゲホゲコインスタンプ等という名称であり、どこの街にも一軒位はそんな店があったような気がする。
そこの店の人というのは、大抵、ボロボロの店に、愛想なしのジイさんがやっているのである。今時の若い人だったら「古いお店で素敵、オシャレ」とは思うかもしれないけど、若き日の宿主からみたら単なるアバラ家に、やる気はないけど強欲な老人がいる不思議な空間に見えたのである。我々は「クモの巣が張っているお店に、頭の中にクモの巣が張っているジイさんがやっている。」とへらず口をたたきまくっていた。少し擁護しておくとおりしもその当時、子供の間で切手集めが流行っており、切手屋に駄菓子屋感覚でガキが大挙して押しかけ、でかい声で騒ぐだけ騒いで売上0で帰っていくのだからジイさんの機嫌が悪くなるのも当然だろう。
閑話休題、さてこのブログではこのスクラップブックを頼りに宿主の記憶を呼びおこし、友達のいなかった、もとい、学校生活からはなれた若き日の宿主の旅日記を書いてみたいとおもう。
昭和58年11月3日 山科から天橋立 宮津・丹後山田間行
中学一年生の時、加悦鉄道を訪問した時の切符である。なぜ加悦鉄道だったかは明確に記憶がある。それはその当時すでに国鉄線から姿を消したキハ10に乗ろうとしたからである。もう少し正確にかくとバス窓を見たかったからである。バス窓というのは、一見上下二段の窓なのに、上段はHゴムで小判型に固定され、下段だけが上昇する窓の事である。おそらく工程の簡略化と車内の採光を考えた設計であろう。ちなみにその当時のごくわずかにいたバスオタからは、このような形状の窓をディーゼル窓と呼んでたらしい。いずれにせよバス窓はすでに時代遅れの形式で、鉄道では、昭和32年で製造が止まり、バスでも宿主が過ごしていた京都でも昭和50年代前半では姿を消していたと思う。
さて、旅の計画である。いまならスマフォ片手に到着予定時刻を入力すれば、いいがその当時はそんなものはない。あるのは時刻表のみである。時刻表を使ってレポート用紙に書くのである。もちろん特急、急行なんて使わない。列車を一つずつ書き出して一々接続を確認するのである。その当時の田舎の普通列車の国鉄のダイヤは、今と違って本当に利用者に親切ではなかった。接続が悪いなんて生易しいものではない。平気で乗り換えの為に一時間待ちなんてザラだった。ひどい場合は乗り継ぎたい列車の発車時間が乗ってきた列車の数分前という事例も散見された。とにかく不親切というか自分の都合ばかりを優先したダイヤだったのである。 そんななかで計画を立てるのである。山陰線のページを開き京都からこの列車に乗ると綾部に〇〇:〇〇について、で舞鶴線のページを開き〇〇:〇〇に乗って・・・ということをレポート用紙に書いていくのである。
(・・・)とオッサンになった今から言えばそうなるが、中学生のころはそんなことは全く気にならなかった。むしろそれを楽しんだ。メモを書き連ねていく内にひとつづつ世界が拡がっていく気がしたし、それが自分だけの秘密をもったような気もしたからである。また鈍行だから不便なのは当たり前だった。そんなことで少なくとも旅人で文句をいうなんて考えられなかった。その当時は田舎の駅でも相応以上の広さを持ち、時間待ちの間、配線や貨車の入れ替えを見るだけで楽しかった。列車の待ち合わせで反対列車を見るのも楽しかった。反対列車の車両をみて郵便室や荷物室がある合造車が連結されているのを見るとそれだけで羨ましかったりもした。
(続く)