一枚の切符から・・・。その3。初めての夜行列車。
昭和59年の夜の天王寺駅周辺は、他所からきた中学生には少し刺激が強すぎた。いかがわしい店があった。地元にはないような造りの居酒屋がいっぱいあった。居酒屋の看板と電線が乱雑に絡み合っているように見えた。その下で酒に酔って大東亜戦争の反省と西村晃(2代目水戸黄門)の悪口を延々と講釈する人がいた。ほんの少しだけ戦後が残っていた。今から考えればよく補導されなかったと思う。ここは私のいる場所でないと思い改札に入り阪和線のホームに入った。
発車の3時間前家に自宅に電話を掛ける。両親に怒られることを覚悟したが以外とあっさり了解してもらえた。それどころか気をつけろという励ましの言葉をもらった。駅蕎麦を食べ、発車の2時間前に並ぶとその当時の鉄ヲタ用語で同業者が一人いた。同じ趣味という意味だ。 もっと人が並んでいると思っていたが そうではなかった。今どきの鉄道ファンはどうかわからないがこの当時の鉄ヲタは同業者を見るとすぐに声をかけるのが習性だった。とにかく鉄道趣味の為なら二時間並ぶとか全く苦痛にならない人達だけども、確かに暇なのだ。阪和線の初期型103系を2時間眺めるだけでは、間が持たない。あと一人でいるのが好きなのにいざ一人でいると寂しく感じてしまう中島みゆきみたいな世界観を持っている人が多いのだ(と思うw)。そのくせ同じ趣味を持つ人に平気で気安く声をかける癖に学校のクラスの女の子には絶対に声をかけない(と思うw)。
自分から声をかけたか、相手から声をかけられたか定かではないが、一人の同業者としりあった。その人は高校2年生だったように記憶している。その当時の鉄道趣味界では同じ趣味の人が話をすると軽い自己紹介の後自慢話と講釈が続く。その人の自慢は北海道の白糠線に乗ったこととEF58の窓形状の講釈だった。白糠線とは昭和後期からのローカル線廃止の過程で一番最初に廃止されたローカル線のことである。EF58とはその当時ファンの間で人気のあった電気機関車。その当時のファンはヨロイ戸の形状とかパンタグラフの改修とかヘッドライトの形式かとか一両一両詳しい人が多い。これがもう少し大人になるとカメラ機材の自慢話まで加わる。
閑話休題。12系に乗る。その当時は紀勢線の新宮以西は旧型客車から12系に移行していた。夜行の新宮行は鉄道ファンは少なく、半分が釣り客でもう半分が和歌山まで終電としての役割を担っていた。立っている人はいなかったがほぼ満席。BOXシートに男性四人は如何にも狭苦しい。 2020年の現在ならyoutubeあたりで「地獄の旅」とか書かれるだろうが、そんなことは全く思わなかった。ただ釣り客は紀伊田辺あたりから断続的に降りるの2時になっても3時なっても寝られなかった。地獄ではないが眠たかった。眠たい中でもガタンガタンという音と汽笛だけは聞こえた。鉄道好きにとっては鉄路の上であればどこでもいいのだ。夜が白々と明けてきた。窓から見える太平洋は朝焼けでオレンジに見えた。 (続)